Monday, May 19, 2008

先祖探し



ずいぶん前のことになるがアメリカの小説「ルーツ」が世界的なベストセラーになった。あるアフリカ系アメリカ人が、奴隷として連れてこられた自分の先祖を探すというストーリーで、これをきっかけに世界中で「先祖探し」が流行した。だがオーストラリアでは先祖探しはついに流行らなかったという。

最初のイギリス人入植者がオーストラリアの土を踏んだのは1788年の事であった。その1500人の半数750余名が囚人、残りも大半は本国で生活できなくなった食い詰め者、そして護衛の兵士であった。何故イギリスは本国から1万マイル以上も離れた未開の大陸に囚人を送り込まなければならなかったのか。オーストラリアの歴史の教科書によると「イギリスの監獄が一杯だった」からである。実際18世紀末のイギリスの牢屋は満員だった。今に比べて悪い人間が多かったという事ではなく、その当時の労働者のおかれた環境は恐ろしいほど過酷だったのである。

貴族階級や資本家階級、政治家によるの徹底した搾取と長時間労働。社会福祉制度などもちろんなく、貧困者は路に溢れた。さらに過酷な法律。生活に困ってその日のパンを盗んだだけで10年の懲役刑などという例はざらにあった。そして監獄はあふれ、彼らの捨て場所として選ばれたのがオーストラリアだったのである。

どの国もその歴史の1ページ目は輝いたものであって欲しいと願う。歴史のある国なら建国神話がある。オーストラリアと同様な植民国家であるアメリカはメイフラワー号の乗員を美化している。しかしオーストラリア国民はそれができなかった。いや、しなかったのか。考えてみると、これは凄まじい。子供達が最初に学ぶ、自国の歴史の最初のページに自分たちの先祖が囚人であったと書かれているのだ。彼らの心に宿るものはなんであろうか。

さて、オーストラリア人で知らない者はいないという歌、いわば国民歌と言えるのが Waltzing Matilda である。国歌を知らない人はいてもこれを知らない人はいないとか。この歌が何故それほどオーストラリア人に愛唱されるのか私には分からない。みなさんはこの歌詞をどう感じられるだろうか。オーストラリア人気質が現れているはずなのだが。

ちなみにこの歌詞の swagman とは身の回りの物を入れた毛布( matilda )を肩に担いで各地を放浪( waltzing )した労働者のことだそうだ。もちろん今はほとんど見かけることはないそうだが。

Waltzing Matilda

Once a jolly swagman camp'd by a billabong,
Under the shade of a coolbah tree,

And he sang as he watch'd and waited till his billy boiled,

You'll come a Waltzing Matilda with me.
Waltzing Matilda, Waltzing Matilda,

You'll come a waltzing Matilda with me,
And he sang as he watched and waited till his billy boiled,

You'll come a waltzing Matilda with me,
You'll come a waltzing Matilda with me.

毛布を担いで放浪しよう

愉快な放浪者が水たまりの側でキャンプをしていた。
ユーカリの樹の下で。

そして彼らは歌っていた。湯沸かし器の沸き立つのを待ちながら。

毛布を担いで放浪しようよ、俺と一緒に。
毛布を担いで放浪しようよ、俺と一緒に。

そして彼は歌っていた。湯沸かし器が沸き立つのを待ちながら。

毛布を担いで放浪しようよ、俺と一緒に。
毛布を担いで放浪しようよ、俺と一緒に。

アボリジニの歌



どこ国の歴史にも必ず恥部はある。ドイツならユダヤ人虐殺。日本なら中国への侵略や韓国の植民地支配。アメリカなら黒人奴隷やインディアンの虐殺。それらを正しく伝えるのは(困難なことだが)義務であり、民主主義国家の証でもある。逆にその国の歴史の教科書にそれらが記されていないなら、その国民は自分自身の歴史に目をつぶっていると言える。

オーストラリア人にも自国の歴史を学ぶうえで決して避けて通ることのできない事実が二つある。その一つがアボリジニの問題である。

シドニーを訪れた観光客はたむろするオーストラリアの原住民アボリジニに驚く。以前は、その膚の色から blackあるいは、今ではオーストラリア生まれの白人を意味する native と呼ばれていた。繁華街や公園にたむろする彼等の姿は異様だ。多くの人は、昼間から酒の匂いをプンプンさせ、観光客に物乞いをする彼等を汚いものでも見るようにして目を背ける。

彼等に同情する必要はないかもしれない。しかし、彼等の姿は美しいオーストラリアと、その社会の持つ欠陥でもあるのだ。

アボリジニの人口は約16万人。内混血が11万人。約半数が市街地に住む。約3万人ほどがノーザンテリトリー(北部準州)やサウスオーストラリア、ウェスタンオーストラリアの奥地に住み、伝統的な部族生活を送っている。多くはアボリジニ保護区(Aboriginal Reserve)に住み、隔離されている。

アボリジニは約5万年前にオーストラリアに渡来したと推定される。白人の渡来前には30万人以上いたアボリジニは、組織的な虐殺により、瞬く間に半減し、その文化を失ってしまった。特にオーストラリア南部のタスマニア島で行われたそれは「種の絶滅」を意図した徹底的なものであった。虐殺が開始されて数年でその島(68000平方キロの巨大な島、今はタスマニア州となっている)からアボリジニは全く消滅してしまったのだ。これら事実は無論白人階級に良心の傷として残っている。

その代償としてオーストラリア政府が取ったのは、アボリジニに対する手厚い社会福祉政策であった。それが結果として彼等の労働意欲を奪ってしまったのだ。

Oh White man,
Why did you have to come?
And open our eyes
To a new strange life.
We were content the way we were.

おお、白人よ
なぜ、ここへ来なければならなかったのか
そして俺たちの目を開かせたのか
新しい、奇妙な生活へ
俺たちは今までの生活に満足していたのに

全てのアボリジニが怠惰な生活をしている訳ではもちろんない。しかし、白人社会に適応しているアボリジニが少ないことも事実だ。これは隣国ニュージーランドの原住民マウイ族が見事に適応しているのと対照的だ。彼らは医者や弁護士、エンジニアといった層を搬出している。アボリジニは結局白人文明を最後まで拒否したのかもしれない。これからも。

簡単な女


緑に覆われた山のふもとに家はあった。築後10年くらいだろうか。木造の平屋ではあるが、よく手入れされている。1mほど高床になっているのは湿気対策かもしれない。白いペンキの階段を登ったところが玄関だ。50畳ほどのワンフロアが2.5mほどのパーテションで玄関ホール、リビング、ダイニングの3部屋に区切られている。天井が高いのでそれでもパーティションの上に1mほどゆとりがある。庭にはヒョウタン型をしたプール。もちろん煉瓦製のバーベキュー・サイトも。これはオーストラリアの家庭の定番だ。寝室や浴室はダイニングの向こうにあるようだ。全体ではL字型になっている。

「泳ぎたければどうぞ」と勧められたが遠慮した。プールがあっても彼等自身もそんなには泳がないようだ。日本人が少し裕福になると、庭に池を造って鯉を飼いたがるようなもので、装飾的要素が大きいのかもしれない。

ダイニングで昼食をごちそうになった。といってもサンドイッチがメインの簡単なものだ。話の中心はやはり、仕事のこと、家族のことから彼我の文化のことになる。このあたりは人と会う度に話題になるので、下手な英語にも磨きがかかって、わりと流暢にしゃべれるようになっている。夫婦には息子がいて、キャンベラに住んでいるそうだ。オーストラリアは大学進学率が低く、大学の数も少ない。今のところ全て国立だそうだ。でも、もうすぐ近くにオーストラリア初の私立大学ができるそうで、そのあたりも話題になった。

日本の企業の進出も盛んだそうで、いくつかの企業名がスラスラでてきた。そういえば途中の道でも巨大な看板を見かけた。このあたりは喜ぶ訳にもいかず、苦笑するしかない。一般市民がどう感じているかがやはり気になる。この夫婦は会社を経営しているので、日本企業の進出はビジネスチャンスと考えていて悪い印象は持っていないようだが。ケアンズの姉妹都市、徳島県日和佐町のことは残念ながら知らなかった。

デザートにはトロピカルフルーツがでた。見たこともない果物だ。このあたりでも珍しいようだ。スター・フルーツ(だったと思う)の真っ黒な星形の果肉が印象深い。味の方は何といったらいいのだろうか。デリシャスというよりオツというほうが当たっている。ようはそんなに美味しいものではない。慣れもあるのだろう。キウイフルーツを初めて食べたときも美味しいとは思わなかったが、今では好物の一つだ。

午後からは、二カ所ほど回るだけだそうだ。その後、どこか行きたいところがあれば案内してくれるとか。ブリスベンあたりなら良く調べてあったのだが、このあたりは予定外だ。まかせるしかない。

I'm easy, mate.
どこでもいいよ。

easyはもちろん「簡単な」という意味ですが、上の場合は「私は簡単だ」つまり「おまえの言うとうりにするよ」となる。友達に逆らわないのが友情第一のオーストラリア人の取り柄だ。

easyには次のようなけしからん用法もある。

She is an easy.
彼女は簡単だ。つまり、すぐ○○せてくれる。

目が覚める


目が覚めた。時計を見るとまだ5時すぎだ。ホテルで泊まったときはいつも早く目が覚めてしまう。こんなときは無理して眠らないで起きてシャワーをあびる。そして着替えて付近を散歩する。日本でも出張のときの楽しみでもある。

やはりすぐ前は海岸だった。といったも砂浜ではない。岩造りの岸壁になっている。引き潮なんだろう、沖まで続く干潟で水鳥が遊んでいる。海岸沿いがずっと公園になっていて芝生が植えられている。ところどころに白いベンチやテーブルが置かれている。ヤシの木が運ぶ風が涼しい。何人ものジョガーとすれ違う。しばらく歩くとテイクアウェイの店があった。本来は持ち帰りなのだが、店の前にテーブルとイスが並べられて十人以上の人が朝食を取っている。時計を見るとまだ6時半だ。オーストラリアの朝は早い。コーヒーや紅茶を飲みながら語り合っている姿がとてもさわやかだ。

町の通りはきれいに整備されていて碁盤の目になっている。観光地らしくみやげ物屋風の店や、小さなレストランが目立つ。全体の印象はやや古びた感じがする。建物のペンキが強い日差しでやや色あせているせいかもしれない。しばらく足の向くままに散歩してホテルに帰った。バイキングの朝食を終えた頃、空を見上げるとすでに強烈な日差。これがケアンズだ。

8時少し前にロビーに行くと、すでに夫婦が待っていた。止めてあった車は何とベンツだ。オーストラリアでは輸入車には100%の関税がかかる。国内にベンツの工場はない。裕福なんだろう。エリア責任者といっても本職がある。木材関係の会社を経営しているそうだ。市内を案内された。オーストラリアの町の(シドニーのような大都市は別だが)City Centerと呼ばれる市の中心地はどこもごく狭い。その近くの教会やら公民館をめぐる。主に日本の学生を受け入れてホームステイする家庭を斡旋するのが彼等の仕事だ(といってもボランティアだが)。その学生たちの昼間の活動拠点、学校として使われるのがそれらの施設なのだ。「どうだい」と聞かれたが、どうも気に入らない。「市の中心から離れている方がいい」と正直に言った。車は郊外へと向かう。

ブリスベン近郊とは景色が違う。山が多いのだ。木々の色は鮮やかな緑だ。土の色も日本に近い。なにか日本に帰ったような気分で懐かしい。このころには水銀柱もどんどん上がる。結構湿気もあるようだ。でも考えてみると今は8月、これでも冬なのだ。季節の変化の少ない地域とはいえ、夏はどんなだろうか。

次に案内されたのは高校。ここのドミトリーの一部が空いていて借りられるという。グランドでは学生が野球の練習をしている。オーストラリアの球技といえば、まずはラグビー。そしてAussie Rulesと呼ばれるオーストラリア式のフットボール。イギリスの影響でクリケットといったところがメジャーで、野球はごくマイナーだ。聞くと、ケアンズ周辺では結構盛んらしい。小高い丘の上に立つ校舎からあたりを見回すと、はるか三方が山に囲まれている。足下は静かな住宅地で、周囲の環境はなかなか良い。もちろん治安も良さそうだ。気に入ったと伝えると喜んでくれた。

次はどこかと聞くと、もう昼だから食事にしようと言う。夫婦の自宅に招待してくれるとか。彼等の家庭はオーストラリアではアッパーミドルといったところだろう。どんな家に住んでいて、どんな生活をしているのだろうか。

I usually surface about five o'clock every morning.
私はだいたい毎朝5時ごろには目が覚める。

I bet he won't surface today.
彼はきっと今日は出てこないよ。

surface:目が覚める、姿をあらわす

いい女だったのになあ


ブリスベンからフリーウェイをぶっ飛ばして無事帰宅・・・と言いたいところだが、なんと出口を行き過ごしてしまうというミスをしてしまった。しかも広いオーストラリアのこと、次の出口が何十キロ先かわからない。しかも、あたりは暗くなってきた。で、あたりに車が見あたらないのを幸い、反対車線に移るという暴挙に出た。反対車線と言っても車線の間は3mほどの芝生で、ところどころ木が植えてあるだけ。スピードをぐっとおとし、「オーストラリアでも違法なんだろうな」と思いながら、えいゃ。

オーストラリアで夜の道を運転するのは初めて。後ろから来る車のライトがやけに眩しい。オーストラリアの車には日本では当たり前の防眩ミラーが付いていないのだ。車と言えば、どの車の窓にも何ていうんだろうか透明プラスチック製のでっかいカバーが付いている。最近日本でもRVに付いているやつだ。ほこり避けだろうか。冷房が付いてない車も多い。日本ほど多湿でないせいかもしれない。とにかく少し不安だったが無事帰宅。

私の滞在していた家のご主人はウェスタン・オーストラリア州のダンピアという小さな町(といっても地図にも載っている)の出身。奥さんはニュージーランドはウェリントン出身のニュージーランド人。高校を出てシンガポールで働いていた彼女がたまたまご主人の住んでいた町を訪れて出会い、そして結婚したという。しばらくはそこで夫婦で働いていた。しかしある時意を決して貯金をはたいてキャンピングカーを買い、オーストラリア中を旅をして回ったそうだ。そして、通りかかっただけで縁もゆかりもないこの町が気に入り住みついたとか。ケアンズも訪れたことがあるという。話を聞くと二人が訪れた中ではもっとも美しい所の一つという。楽しみだ。

さて、一週間後、手回り品をバッグに詰め込み、再び、フリーウェイを南下してブリスベン空港へ。車をLong Term用の駐車場へ入れ、国内線待合所へ。エージェントの担当者がチケットを渡してくれた。向こうの空港でケアンズ地区のエリア責任者が待っているという。

ケアンズはオーストラリアの北部ブリスベンの北1766Km、ヨーク岬半島の付け根にある。距離的にはブリスベンよりニューギニアのほうが近い。人口は78000人。年間降雨量が2001mm、年間平均降雨日数は161日。気温は一年を通して約25度。グレートバリアリーフの玄関としてあまりに有名だ。また、近くにはオーストラリア有数のマウンテン・リゾート、アサートン台地がある。今回はわずか2泊3日の滞在のため、二カ所ともちょっと行けそうにない。飛行機から下を見ると、左には延々と真っ黒の低潅木地帯が広がる。所々川が蛇行する。はるか左にはGreat Dividing山脈が横たわり、Great Artesian盆地、その向こうは砂漠地帯だ。日本の緻密な景色とはやはり違う。

空港に着いたのは夜の8時。あたりは真っ暗だ。日本からの直行便もあるという国際空港だが、そこは10万人もいない小さな町だ。空港はごくこじんまりしている。徳島空港とドッコイってとこだろう。到着ゲートを出ると40歳の後半くらいだろうか、エリア責任者が迎えてくれた。簡単な自己紹介をする。奥さんも一緒だ。今日は遅いのでホテルに直行して、明日の8時に迎えに来てくれるという。夫婦で案内してくれるそうだ。連れられたホテルは結構豪華そう。ちょっと財布が心配かナ?

ボーイが部屋まで案内してくれた。エレベータの中で制服姿のスチュワーデスと一緒になった。なかなか美人。どこかで見たと思ったら、ブリスベンからの飛行機のスチュワーデスだ。今日はここで泊なんだろう。なんと片言の日本語で「日本の方ですか?私は日本語を習ってます。後でお話ししませんか」と言うではないか。「ラッキー」とばかり部屋の番号を聞こうと思ったら、エレベータが止まり、ボーイが降りろと言う。残念!

あたりが暗いせいもあって、回りの状況はまったく分からないが、どうやら町の中心にあるようだ。窓を開けると波の音が聞こえる。すぐそこは海岸らしい。後は明日を待つばかりだ。楽しみではあるが、日本語の全く分からない夫婦相手に、こみ入った話をしなければならない不安もある。まあ、なんとかなっか。

She was easy on the eyes.
彼女は美人だったのに!

万事、うまくいった


オーストラリアで最も日照時間が長いため、別名サンシャインステートとも呼ばれるクイーンズランド州。7400Kmにも及ぶ海岸線には世界的なリゾートビーチが点在する。マリンスポーツの好きには何と言ってもサーファーズパラダイスだろうが、それは後日のお楽しみ。

さて、その州都ブリスベン(Brisbane)はブリスベン川の河口に発展した町だ。人口は約120万人。州の人口の約半分が住む。平均気温は真冬のでも15.7度。真夏も25.1度と過ごしやすい。100万都市にしては市の中心部はこじんまりとしている。端から端まで30分くらいだろうか。あとは住宅地域や工業地域が点在して、それがフリーウェイでつながれているのだ。市街はブリスベン川で南北に分断されている。それを結ぶ大動脈、ビクトリア橋をわたると、10分ほどで着くはずだ。ここらだろうと目星を付けて公衆電話を探す。あらかじめ聞いてあった電話番号に電話をして無事場所を教えてもらうことができた。案ずるより生むが易とはこの事だ。ほっ。


さて、エージェントのオフィスは7階建てのビルの中にあった。受付で用件を告げると個室に通される。大柄の50歳代の白人女性が大げさなジェスチャーで迎えてくれた。日本風に名刺を交換した。Executive Administrator とある。自己紹介をして、しばらくは世間話に花を咲かせる。オーストラリアを褒めちぎった。これは社交辞令ではなく本心もかなりある。そのうちこちらの今後の方針やら見通しなども聞かれるままに答えた。

結構細かい話をした後でこちらもいろいろ質問したのだが、その中でケアンズの事を聞いてみた。クイーンズランド州の北部にある町だ。他意はない。徳島県の日和佐町というところがケアンズと姉妹都市なのだ。両方とも青ウミガメの産卵地という共通点があって、そんな縁から縁組みをしたという。それでふとその名前が出たに過ぎない。だが向こうは私がケアンズ地区に相当興味を持っていると思ったらしい。内線でしばらくしゃべったと思ったらなんと「よかったらケアンズを視察してみないか」と言う。来週ならケアンズの地区責任者が直接案内するというのだ。どうやら私がかなりの大物だと勘違いしているようだ。そう言えばこちらの名刺にはChief と書いてあった。日本ではchief=主任といえばヒラ同然だが、英語では最高責任者といった意味あいがある。でも訳したのは米国人スタッフだ。私の責任ではない。

しかしこれはチャンスだ。旅費や宿泊費はこちら持ちだろうが、むこうの責任者がわざわざガイド役をしてくれるの言うのだ。日本へ帰っても伝票が通るとは思えないが、最悪自腹を切ればよい。わざとらしく手帳をめくった後でOKした。飛行機とホテルは予約してくれるという。ブリスベン空港での出発の時間だけを決めて、とりあえず家路を急いだ。突然降ってわいたケアンズ旅行。やったぜ!瓢箪から駒とはこのことだ。

Everything was beaut.
万事うまくいった。
beaut=very good

疲れちゃったよ


鉄道があまり発達していないオーストラリアでは車は必需品だ。都市部から少し離れれば車以外の交通手段はまったくない。東海岸沿いの主要都市はフリーウェイで結ばれている。ブッシュの真ん中を突ききって地平線まで延々と続くそれをすさまじいスピードでとばす。そもそもオーストラリア人はよくとばす。高速道路だけでなく、普通の道でもそうだ。自嘲的にオーストラリアン・クレージードライバーと言っている。日本とは距離感が違うのだから仕方い。

むこうではレンタカーを借りた。フォードのコンパクトカーだった。ドライブに出かけたりもしたが、ほとんどは近場をうろうろする程度。恥ずかしい話だが道に迷うのが恐かったのだ。なにしろ日本にいるときから方向感覚ゼロだった。言葉も景色もまったく違う異国に来て何をかいわんや。日本と同じなのは車は左側を走るということだけだ。

そんな私が、なんと一人でブリスベンまで行くはめになった。これは不安と言う前にほとんど無謀だ。ブリスベンまではともかく、それから市内に入って目的地まで行けるだろうか。しかし今回のオーストラリア滞在で一番大切な仕事、地元のエージェントへのあいさつと打ち合わせがある。片道約100Km。とにかく地図と道路標識だけが頼りだ。でも行くしかない。

道路標識というのは、その国の言葉がわからなくてもある程度意味が分かるようなものが多い。空港が近づくと飛行機を描いた標識があって分かりやすい。いかにもオーストラリアらしいといえばカンガルーの絵が描かれた標識。これは「カンガルー飛び出し注意」の意味。郊外でよく見かける。野生のカンガルーが道路へ飛び出して車にはねられる事故が結構多いらしく、ドライバーに注意を促するためのものだ。道路標識ではないが、日本でも道路沿いに「マクドナルドまで2Km」といった看板を見ることがある。こちらでは「マクドナルドまで40Km」とはやはり距離感が違う。とにかく、クレイジードライバーに負けじとひたすら猛スピードで南下する。

ブリスベン市内との矢印に従ってフリーウェイを降りる。しばらくすると交差点があった。日本との違いで目立つのはこれだ。ロータリー方式とでも言うのだろうか。何本かの道が交差する中心部が円形の道になっている。ちょうど晴れのお天気マーク(東京都の印?)のようだ。一方から来た車はその円形の道に入りぐるぐる回って自分の行きたい道に入って離れて行く。もちろん町中の交差点は日本と同じだが、郊外の交差点はこの形式のがよくある。信号機もいらないし、土地が十分にあれば合理的な方法かもしれない。でも地理不案内の人間は少し困る。ぐるぐる回っている内に、方向がまったく分からなくなってしまうのだ。自分がどの道から入ってきたのかもわからなくなる。それぞれの道には地名を書いた標識があるにはあるが、いったいどこへ入って良いのか分からない。停車して地図を見る。目的地方面と同じ地名が書かれた標識がある。こちらに違いない。ふと気が付くと手のひらが汗でびっしょりになっていた。

I'm done in after that long drive.
長い運転でたいへん疲れた。
done in = tired

(続く)